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ダイカイテン [ 03 ]
作:かぎ

「あ、いえ、今はこっちなんです」

 そう言って、彼女が指差したのは、新しいマンションが建ち並ぶ住宅街だった。てっきり、昔の家に住んでいるものとばかり思っていたのだけれど、引っ越したのだろうか。
 同じ町内だが、道が一つ違うので、それで今まで出会う事が無かったのかと納得もした。

「実は、兄が結婚しまして……実家に居辛くなったんです」

 そんな俺の疑問に、答えようとしたのか、彼女がぽつぽつと話し始めた。

「え、お前、マンション買ったの?」

「まさか、えっと、ワンルーム借りてます」

 驚いて、彼女を見たが、彼女は目が合った瞬間俯いてしまった。
 そう言う表情をされると、俺が照れるし……。
 俺は、空いている手で鼻を掻き、今度はちらりと彼女を盗み見た。
 公園からの帰り道。あの勢いのまま、俺は彼女の手を引いていた。繋いだ手が、熱い。

「あ、ここです」

 しかし、楽しい時間は、すぐに終わる。
 彼女は小さなマンション前で立ち止まり、その入り口を指差した。
 そこで、おしまい。残念だけど、手を離した。

「今日は、本当にありがとうございました」

 一歩、マンションの敷地に足を踏み入れ、彼女が丁寧にお辞儀した。
 これで、おしまい?
 俺は、慌てた。そして、今何を言うべきか、必死に言葉を搾り出す。

「あのさ、携帯……番号教えてよ」

 結局、そんな陳腐な言葉しか浮かばなかったけれど、これきりになるのは嫌だった。それから、こんな風に偶然出会えるのを待つのも、勿論嫌だった。

「……何故?」

 だから、最初に疑問を返された時には、純粋な疑問だと思ったのだ。

「いや、その、もっと話がしたいっちゅうか、今度は約束して合いたいっちゅうか……」

 言い訳がましく、もごもごと口篭もる。

「…………何故?」

 そんな俺に、更に彼女は疑問を投げかけた。
 流石に、様子がおかしい事に気がつく。あらためて、目の前に立ち尽くす彼女を見た。
 はっと、息を呑む。
 その表情は、何も無い。先程までの表情豊かだった彼女はどこにも居なかった。ただ、ガラス玉のような瞳でぼんやりと俺を見ている。いや、俺が映っているだけか?

「いや、俺は、……俺は、ずっと、お前に謝りたくて」

 その様子に、焦った。
 そう、ずっと、彼女に謝りたかった。思い出し、彼女に一歩近づく。
 ざり、と。お互いが土を踏む音。彼女が、俺に合わせる様に一歩下がったのだ。二人の距離は、縮まらない。

「あの頃は、本当、どうにかしてたんだ、だって……」

「謝るくらいなら、返して」

 だって、の後に続く言葉を飲み込んだ。それは、あまりにも陳腐でくだらなく、最も重要な事だったのに。
 代わりに、彼女の声が、静かに響いた。

「……え? 返す……?」

「ええ、例えば、私の楽しい学生時代を、楽しい授業の思い出を、楽しい遠足の思い出を、楽しい学級会の思い出を」

 彼女が何を言っているのか、少しずつ、理解する。

「私には、無いもの、他人を信じる事も止めてしまった、昔の思い出も無くしたかった、けれど、それを返してくれるならそれで良い」

 何も、言い返す事が出来ない。
 彼女から、それら全てを奪ってしまったのは……、

「それが出来ないのなら、放っておいてください」

 静まりかえる、俺に、冷たい視線を残して彼女は去った。
 きっと、ずっと。
 彼女は、それを押さえて、生きてきたのだろう。誰にも暗い心を知られぬ様明るく振舞い。しかし、心のどこかで、誰も信じていない自分が居ると。
 俺のせい、なんだ……
 ぼんやり思った。彼女の心はあの頃のまま。ずっとそこで、凍り付いていたんだ。
(2005/11/01)