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変らないもの、ヒトツ [ 03 ]
作:かぎ

「あの看板、昔は無かったのになぁ」

 駅への道を半ば強引に二人歩きながら、俺は様々な話題を彼女に振ってみた。
 ビルの屋上の大きな看板を指差す。
 けれど、彼女は、眉をひそめまた俯いてしまった。
 別に、嫌がらせじゃない。俺は、彼女と何か話したい。それだけなのだ。けれど、それが上手く伝わっている様子は無い。少々、困っていた。

「え? じゃあ、あっちのビルが建て変ったのは知ってる?」

 仕方が無いので、また別の方を指差す。
 同じ町に住んでいるのだ、きっとどこかに共通の話題があるはず。
 駅に辿り着くまで後わずか。
 俺は、諦めなかった。

「ああ、そうそう、あの緑色の屋根の家、増築して縦に長く……」

 それは、突然だった。
 俺の声を遮るように、繋いだ手を強く握り締めたのは彼女の方。
 ついに共通の話題を見つけたのだろうか。
 立ち止まり、彼女の言葉を待った。

「……、皆、変ってしまえば良いのに」

「いや、そりゃ、新しくなるのは良いけど、昔の馴染みが無くなる……」

 ずっと俯いていた彼女。
 何を言い出したのか? 俺は首を傾げた。
 確かに、この町は少しずつ変わっていく。けれど、皆変ってしまうというのは、それは……?

「皆、皆、変って忘れてしまいたい。昔の事なんて、誰も……皆も……忘れてしまえば良いのに」

 ようやく彼女が呟いた。
 また、あの瞳だ。光が無く、何も見つめていない。

「でも、俺は忘れない」

 握り締めた手を、もう一度握り返す。
 駅はもうすぐ目の前。
 彼女はゆっくり首を横に振った。

「昔を思い出すのは嫌、私には何も無いのだから、皆消えてしまえば良い」

「でも、俺は覚えてる」

 彼女の腕がかすかに震えた。
 今まさに、彼女の事を抱きしめる事ができたるのなら、どんなに良いだろう。
 しかし、それをしてはいけない気がして。
 俺は一度だけ、彼女の頭をなでた。
 変らないもの一つ、彼女に心を奪われる、俺の心。
(2006/02/22)