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全てを通り越して [ 05 ]
作:かぎ

 木原は怯えたようにすくみ上がっていた。
 扉は、三センチも開かれなかった。ドアチェーンががちゃりと音を立てる。

「木原、ここ、開けて?」
「い、いや……です」

 俺は、思った以上に低い声が出て、少しだけ焦った。木原は、ドアに手をかけて震えていたし、これではまるで、俺が強盗にでも来たみたいだ。実際、木原はそう思っているのかもしれない。
 三センチの隙間から、聞こえてくるのは木原のしゃくりあげる音。
 彼女のすすり泣く声が聞こえるたびに、胸が締め付けられるような思いがした。
 とにかく、こんな、三センチの隙間で開ける開けないの問答を繰り返しても仕方が無い。一旦ドアから手を離し、そっとドアを締めてやる。

「わかった。じゃあ、ここに居るから、泣きやんだら教えて」

 できるだけ、穏やかな声でドア越しに話しかけた。
 すると、控えめな声で、返事が届く。

「どう、して……?」
「俺、お前が泣いてるの、嫌だ」

 そのやり取りで、終わりだった。扉の向こうから、もう何も聞こえてこない。
 昔の俺は、どうして彼女の涙が見たいなんて、思ったんだろう。今、彼女が、扉の向こうで泣いていると考えただけでも、胸が焼き切れそうだ。
 何とかして泣きやんで欲しいけれど、俺は扉を越える事も許されない。
 どうして良いのか、本当に分からなくて、それでもここを離れたくなかった。

 けれど、いつまでも女の部屋の前に居座るのは、流石にまずいと思う。
 どこか待てるところに移動しようかと思案していたら、背後でがちゃりと音がした。

「……」
「……」

 まさか、と思ったけれど、三センチよりももう少しだけ扉を開き、彼女は怯えたように俺を見ていた。
 手を伸ばしても逃げない。
 触れてみたけれど、彼女は逃げなかった。
 零れ落ちる涙をぬぐってやると、びくりと震える。

「お前、まだ泣いてるだろ」

 滑り込むように扉を越えて、そのまま彼女を抱き寄せた。驚くほどすっぽりと、腕の中に入った彼女は、言葉もなく涙があふれてくるのを我慢しているようだった。
 ゆっくりと、刺激を与えないように、頭に手のひらを乗せてみる。
 本当は、強く抱きしめてみたいけれど、そんな事をしたらどこか壊してしまうんじゃないかと本気で心配した。

「……、う、……っく」

 やがて、我慢できなくなったのか、再び彼女が泣きはじめる。
 少しだけ、訂正。
 彼女が一人で泣いているのはとても嫌だ、けれど、俺の腕の中で泣くのなら、泣ける時に泣かせてやるのもアリかもしれない。

「木原、ごめん。ごめんな、……俺、むかしお前に酷い事、した。ずっと謝りたかったのに、謝ってなかった。ごめん」
「……、そ、んな、事。そんな事、今更、なんですよ」

 彼女は言う。

「どうやったって、昔の事は変わらない。貴方が優しくしてくれるのだって、きっと私の事を陥れるためだって、思って……」

 そして、大きく息を吐いて、それきり言葉を失ってしまったようだ。
 泣いているのに、表情は、訳が分からない、と言う風で定まらない。
 おそらく、なのだけれども、情報過多でパンク寸前なのだろう。

「木原、俺がお前に近づいたのは、また昔みたいにお前をいじめるためだって?」
「……」

 彼女は、俺の言葉に戸惑ったようだが、結局はおずおずと頷いた。
 ああ、そうだろうな、と、何処かで納得する。
 いつまでたっても俺は彼女にとって、ただのいじめっ子なんだ。
 片手で彼女の身体を支えて、もう片方の手でもう一度頭を撫でる。どうせだから、頬もなでまくってから、彼女を離した。

「あのさぁ。もし仮にそれが本当だとしたら、ん、と。本当だとしたら、の、話な」

 絶対に違うけど、と、付け足して、大きく息をすう。

「じゃあ、お前だって俺の事、利用したら良いよ」

 えっ、と、顔を上げる彼女に笑って見せた。
 上手く笑えたかは、分からない。

「なんて言っても、今の俺はべったべたに甘いから。お前が泣いていたら飛んでくるし、お前が何か欲しいって言ったらきっと地球の果てまで駆けても手に入れるし、お前がどこか行きたいと言うんだったらなけなしの有給を使って引っ張っていく。な? それって凄く凄くお得じゃねぇか? だから、都合良く俺を使え」
「……」

 彼女は、ぽかんと口を開けていたが、だんだんと険しい表情を見せ、最後には三歩も後ろに退いて俺をじっと睨んだ。

「何を言っているんです。そんな事、できるわけないじゃないですか」
「いや、俺は、可能な限り実行できるように頑張ります。って言っても、無理な事は無理だけどな」

 俺の言葉を聞いて、それでも木原は、首を横に振り続ける。

「嫌ですよ、そんな女。……それに、そんな風に貴方に頼りきったところで、『実は嘘でした。だまされるほうが馬鹿です』って、突き落とされるのは私です。もう、辛いのは、嫌」

 最後の言葉は彼女の悲鳴に聞こえた。
 けれど、俺は、引き下がらない。ここで引いてしまったら、きっと、次はないと感じていた。

「何言ってるの、じゃあ、今のうちに俺に命令すれば良いじゃねぇか。『私を絶対に裏切らないで』って。ほら、昔から研究されているだろう? 妖精の三つのお願いに、何を望めば良いのかってヤツ。それだよ。あれは『願いの数を無限にして』って言うんだっけ? それとおんなじ。あ『俺の一生をかけて』って言うのでも良いかな?」
「からかわないでください、私は……」
「何で? 俺、本気だよ」

 彼女が大きく息を呑むのが分かる。
 実の所、俺だって喉がからからと渇いていたし、できれば座りこみたかった。
 けれど、腹にめいっぱい力をいれ、彼女を見る。

「お前には、そう言う権利があるし、それだけの価値がある」
「……、あなたが、なにをいっているのか、わかりません」

 そんな事を言ったって、俺だって、もはや自分の言葉の何割も理解できないでいる。
 彼女に、泣いて欲しくない。
 何とか分かって欲しくて。
 そうして、俺は思い出した。

「それは、つまり。つまり、俺はお前がすっげぇ好きで、一緒にいたいって事、……です」

(2008/02/13)