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5.飛び立つ勇気をおしえて
作:かぎ
もう一度、力任せに壁を叩く。
ドンと言う音に、彼女の肩が震えるのが分かったが、そうでもしないとどうにかなってしまいそうだった。俺が、彼女の身体を目的に、危険を犯して助けたって? 今まで一緒に居たのもそのためだって? 震える彼女を目の前に、俺は、言葉を失って、いや、色んな言葉が渦巻いて、混乱した。
「じゃあ何かよ、俺が今ここで、もう要らないから出て行けッつったら出て行くわけ?」
混乱して、良く分からないが、感情があるのか無いのか分からないような事をとにかく叫ぶ。
喉がからからと乾いて行くのが分かった。
「そんなっ、だったら、すぐに、今すぐっ……」
今すぐ、出て行けば?
と、もう少しで、そこまで言いきる所で、ふと彼女を見た。
ずっと震えて俯いていた彼女が、いつの間にかはらはら泣いている事に気がつく。
どきり、と。胸が鳴る。
こ、こ、こ、こんな時に、それはずるい。
そんな風に泣かれたら、すぐに駆けよって抱きしめて慰めたくなるのだ。
しかし、俺は相当怒っていたはずで、だからそんな事は絶対にしない。俺は、改めて腹に力を入れ、最後の言葉を吐き出そうと息を吸い込んだ。
だいたい、今泣くなんて、どう言うつもりなのか。
そう、泣く……、何故、泣くんだ?
あれ?
俺は、勢い良く吸い込んだ息を、そのまますうと吐き出した。
「……ふ、ぇ……」
部屋に、小さくしゃくりあげる彼女の声だけが残る。
何故彼女は、俺と離れる事を思って泣いている? 俺は、そんな彼女を見ながら、突然、その答えと鍵は実は俺自身の中にあるんじゃないかと理解した。
「あのさぁ、リンナさん、俺と離れるとなると、何で泣くの?」
しかし、俺は一応、彼女に確認してみる。
目の前の彼女は、俺の言葉に驚いたように顔を上げ、それから、おどおどと横を向いた。
「そ、それは、あなたと離れるのは、悲しい……、から」
「悲しい? あんたを利用していたはずの大嫌いな俺から逃れられるのが?」
腹の底から笑いが込みあがってくるのだが、それを隠そうと口元に手をやる。
でも、まだだ。
俺は、彼女から何も聞いていない。
彼女は、また、少しだけこちらを向き、それから涙を拭って、下を向いた。
「嫌い、だなんて、そんな……、私は、」
最初は、聞き取れるかどうかの小声だった。
彼女は、そこで一息入れ、ぐっと歯をかみ締めたようだ。俺は、ただじっと、待っていた。
「私は、あなたに優しくされるのが嬉しかった、隣にいるのが楽しかった、だから、だから」
だから、悲しいと彼女は泣く。
俺は、もうこれ以上、我慢ができなかった。
「リンナさん、両腕、広げてみて」
そう言って、自分も両腕を大きく広げた。
彼女は、突然の事に首を傾げ、何度か涙を拭った後、俺を不思議そうに見る。
それでも、俺は我慢強く、彼女が両手を広げるのを待った。
「あ……、の?」
沈黙に耐えかねたのか、ようやく、彼女がゆっくりと少しだけ両腕を開いた。
肩幅よりも、やや大きめにと言うくらいだ。
それでいい、と思った。
「じゃ、そのまま、こっちに歩いておいで」
俺の言葉に、彼女はえっと驚き、俺を凝視する。
「おいで」
もう一度だけ、ゆっくりと彼女に、命令する。
彼女は、良く分からないと言うような顔つきで、それでもゆっくりと俺に近づいて来た。
泣いていた眼は、赤く染まり、瞼も赤みがさしていた。
しかし、後一歩と言う所で、彼女は立ち止まる。
それもそのはずで、それ以上進むと俺とぶつかってしまいそうだった。
「だめ、もう一歩こっち」
それでも、俺は、彼女が進む事を望んだ。
俺の胸の下で、触れるか触れないかの位置まで、彼女が飛び込んでくるのを待つ。
何度かまばたきをした後だったか、彼女が意を決したように、更に一歩踏み込んできた。
「はい、じゃあ、腕をまわしてね」
それが、どう言う指示なのか、彼女は理解したのだろう。
え? と小さく漏らして、俺を見上げた。
俺はと言うと、早くしてね、冷ややかな視線を彼女へ送る。
やがて、ゆっくりと、ためらうように、彼女の細い腕は俺の背に回り、彼女が俺に抱きつくような格好になった。
この瞬間を、逃すはずが無い。
俺は、そのまま彼女を抱きしめて、彼女の背を何度も撫でた。
「いらっしゃい、俺の奥さん」
例え手段はどうあれ、俺は彼女が俺に抱きついて来たと言う事が、それはもう、たまらなく嬉しかった。
「ちょ、え? え? あの」
彼女は、驚いたように俺の腕の中で、まだごそごそと動いているのだが、それもまた可愛い。
今度は、彼女の頭を撫でて、彼女の耳にキスをした。
「抱きつくって、結構大変だろ?」
そうなのだ。
俺は、何気ないように彼女を撫でたり抱きしめたりするけれど、本当はいつだって、無け無しの勇気を振り絞っている。いつだって、真剣で、少しでも思いが伝われば良いと思っているから。
「そんな、俺の勇気を、否定しないでくれ」
懇願した。
俺の思いを、否定しないで欲しい。
これまでの日々を、無かった事にしないで欲しい。
と。
やがて彼女は、ゆっくりと顔を上げ、両腕に力を込めてきた。
「私、が、……、あなたの思いを否定していた?」
彼女は、ゆっくりと首を振り、涙を流した。
「私、あなたの大切な思いに、気がつかない振りをして、否定していたの? ずっと……」
けれど、もう、そんな涙は必要無い。
「ごめんな……さ……い」
「謝らなくて良い、でも、今理解して、俺リンナさんの事大好きなんだ、大切に思ってる」
俺は今までのように、思いを彼女に伝えたのだけれども。
彼女は、また涙を流して、けれども笑顔で頷いた。
多分、ようやく、思いが伝わったのだと思う。